そうは言っても〜私的所見〜

備忘録的に。芸術のこと。ファッションのこと。生きること。愛すること。食べること。

特別なわたし

本日、会社の健康診断日で、午前中は人間ドック、午後から休みだったのです。

 

今年も結構な人出。みんな同じジャージを着て、順番待ちしながら検診項目をこなしていきます。

項目から項目までの間、結構な待ち時間があるのでたくさんある雑誌の中から、たまたまそばにあった、Number(ダービー特集号?)を読んだ。

北島康介についてのコラムがあって、記事を書いた方は、北島康介さんと同い年の方だった。

その記事によると、1982年生まれの自分たちは、特別な(このフレーズはつかわれていたかは忘れた)変わった、世代で、キレる14歳や、荒れた17歳と、あまりよろしくない意味で呼ばれて世代だという。

ふーん、そうだったか。と思った。わたしの中で1982年生まれを、あ、1982年生まれなんだこの人とか、意識したことは今までない。

 

そんで、この方は、同い年の北島康介さんを、数いるアスリートの中で特別な思いで見て、応援して、引退した時に、胸に迫るものがあったなんたらかんたらと書いていた。

 

言いたいことはすごくわかった。つい、こないだわたしが、とある選手に抱いていた気持ちを改めて認識させられたことと同じではないか。

 

やはり、年は一つ上でも一つ下でもなくて、同い年っていうのが重要らしい。

そのアスリート(頑張っている、有名人)に自分を重ね合わせ、自分自信は名もない普通の世間人だが、自分と同い年の有名人にはこんな人がいて、同い年生まれの連中は、別の年のやつらとは違って、ちょっと変わったやつらと思われている・・・と。

つまるところ、特別なやつらと同い年の自分ってことをわざわざ書いているわけですが、自分自信は特別ではないわけです。

 

何がいいたいのでしょうか。

しかし、わたし自身もそういうふうに思うことがあるんじゃないのかって思ったのです。

何か、人と違った自分が欲しい。根拠はよくわからないですが、けっこうな人がそう考えるような気がします。

 

でも思ったのです。「うちらの世代って〜〜〜」から始まる話しを、他の年代の人に話しをしても、つまらないんだと。自分がきいてもつまんねーなと。

 

したがって、そのNnmberのコラムは、北島康介と同い年だから〜〜っていう観点で読むと、はぁ?だからなにってなりますが、別の角度から読むといたってふつうです。

 

世間のおおかたの人にとって、ある有名人と同い年だからなんだってことはないのです。あらためて思い直しました。

 

わたしが特別な思いでみているアスリートは、現役です。

アスリートとしてはなかなかの年齢です。彼の姿をみていると身が引き締まるのです。本当に。

でも、そんなこと他人にはどうでもいい話しで、そのアスリートはすごいけど、あんた別に関係ないじゃんってことなわけですね。

 

友人がすごい、家族がすごい、親戚はすごいってのも同様。

そんでもって、自分の世代など、他の世代に注目はされていないってことです。