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そうは言っても〜私的所見〜

備忘録的に。芸術のこと。ファッションのこと。生きること。愛すること。食べること。

申年

今年は申年です。丙申年です。そしてわたくしは、丙申日生まれなので、自分の生まれた日の干支が年でまわってくるのは、60年に一度。なので、私の人生で、おそらく最後です。

 

自分の生まれ日干支のと同じ干支の年が重要年になるということは言うまでもないのですが、丙は火や太陽をあらわしますから、明るいということにもつながります。

 

明るい=明らかにするという意味も含んでいます。

なので私は、この、「明らかにする」いうことを心に思い、今年を過ごそうと思っています。

今まで、どうなんだろう?どっちなんだろうということには、今年、明らかにするっていうようなかんじ。

いろいろやってます。人間関係や仕事のこともろもろ。

 

この丙は、世界中に影響与えますから、不正やごまかしなどが明らかになることにもつながります。良きにつけ、悪しきにつけ、「けしからん」と思われるものが公に晒されるということが多くなるのです。

 

なんかそうなっているような。まぁ、毎年、同じような出来事はあるんですけどね。

 

なんか、奥歯にものがはさまった感じに我慢ができなくなるような、そんな気の流れがあるんだと思うのです。

 

EU離脱のこと。一連の流れをみて、なんかそんなふうにも思った。

もう一回国民投票やったら、結果かわるんじゃないのかな。

でも、人って、感情で判断してしまうことはほんとうに多い。人は、ぜんぜん合理的な生き物じゃないのです。

なんか、面白くないから、あいつが得するのが嫌だから、なんつーしょーもない理由で会社のこと、国政のことなんか決まってしまうんですよ。

 

明らかにする、明らかになる。決して良いことばかりじゃないけれど、逃げてばかりじゃなくて、自分を信じてやってみる。

 

改めてそう思った昨日、今日。

 

今日も家でぐったりしていた。なんでこう体が重たいのだろうか。

 

たまには休めってことだと思って、だらだらしてました。

はじめての定山渓温泉

生まれてこのかた北海道に住み続けている温泉好きのわたくしですが、はじめて定山渓温泉に泊まってきました。日帰り温泉で、新定山渓の鶴雅には行ったことがあったんですが、昔ながらの川のそばのほうには行ったことありませんでした。

会社行事であったため、写真は何も撮りませんでした。なんか気分はそんなにウキウキってわけでもなかったもので。

 

半期に一度、本社から偉い方たちがいらっしゃって、宴会とは名ばかりな、あーだのこーだのってのがあるわけです。そんで年末の忘年会(会社の正式名称は、望年会と書く)ふくめ、大小問わず、会社のオフィシャルな宴会にはある時期からぱったり参加しなくなったのですが、そろそろ外から意見を言うだけではなく、中の現状を実際に見て聞いて、言いたいことがあったら言おうと思ったでした。

 

これで一番おかしいのが、社長はじめ役員の方達との座談の場で話すことを、事前に一人一人セリフで決めていること。まぁ、どんなことを言うか、ざっくりと決めるのはいいと思います。的外れなこととかありますからね。

でもですよ、

Aさん「○○してくれてとても嬉しいです。」

Bさん、Cさん「そう思います」

・・・って、こんなふうに決められた、セリフが書かれた紙がまわってくるんです。

 

いい年した働いてる大人がアホじゃないですか。

 

そら、何年か前の忘年会で、酒に酔った輩が、社長におかしなことを質問したらしいですが、そもそもそういう人材が集まる仕事しか提供できてない会社や職場なんですよ。

非正規雇用で、この賃金で、正社員にクレームが届かないよう、朝から晩まで電話で謝るだけの仕事。内容なんでこんなものです。現場のみなさんの声を聞きたいと偉い方達は言いますが、結局のところ実際声を出して話すのは、直接お客様に謝っているオペレータではなく、リーダークラスの人たち。リーダーの人たちもご苦労されているんですけどね。

 

人があつまれば、いろいろな考えありますから、いいんですが、子供だましのおかしな寸劇させんな!!子供もだませないよ。

定山渓に向かいバスの中で、隣の席の人に、こんなおかしなセリフきめられて、参議院選挙がもう近くて、18歳から選挙権を与えられた人たちに、自分で考えて選挙いこうとか言えますか?大人になっても、こんなバカみたいなことしている我々が、若い人たちに言えないじゃないですか。なんて、言ってしまっていたのでした。

 

だいたい、こんな寸劇みたいなのみせられて、偉い方たちが喜ぶんでしょうか?なめてんのか?って思うんじゃないでしょうか。

我々、非正規労働者も見下して、偉い方たちも見下して。いいかげんにして欲しいです。

 

ま、札幌から定山渓までの移動時間がかかったので、いつもより宴会が短かったらしく、時間がなくなり、おかしな寸劇はやらずに済みましたけどね。

 

貸切状態の温泉入って、そこそこ料理も食べられて、そのへんはよかったですが、寝不足で妙に疲れました。

 

あー疲れた。

 

 

有元利夫展〜札幌芸術の森〜

北海道で久々の、まともというか、これは観たい!!!と心から思えた展覧会に行ってまいりました。

 大・大・大好きな有元利夫です。これが北海道であると知って、大興奮でした。

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開期ももう半ば。本当はもっともっと早く来るつもりでいたのですが、なんせ、市内からここまで結構な距離があり、交通の便が悪いため、朝早起きが苦手なわたくしは、いつも遅れをとっていたのです。

 

地下鉄真駒内駅から20分ほどで緑あふれる芸術の森に到着いたしました。

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 ここ何日かは、札幌、お天気悪く、なんか久しぶりに傘ののお心配がない日だなぁと思ったのでした。

新緑がむさ苦しいほど迫ってまいります。

ここに来たのは、一年半ほど前、藤城清治先生の展覧会の時。その時は車で来たのですが、今回はバス。芸術の森はかなり広く、バスから降りてから美術館への道を忘れていました。

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あったあった。そうこんなところだった。真ん中の道の両脇には水があって。

展示会場と、カフェの入り口があるです。そうだったそうだった。

 

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有元利夫は、かれこれ10年くらい、毎年、新潮社から出ているカレンダーを買っておりまして、とにかく日本の画家では平山郁夫さんと並び、わたしの大好きな画家であります。

2010年だったろうか。東京の庭園美術館で大回顧展があって、すごく行きたかったけど、当時は気軽に有休がとれる状況ではなく、LCCもまだそんなに普及していなく、東京に行くのがとてもハードルの高いものでした。今なら月一回くらいいけちゃうくらいなんですが、気持ちの問題なのかな。なんか、ものすごく遠いところだと感じていたのでした。泣く泣く諦めたのです。

 

で、有元利夫作品は、好きだったけれども、まともに実物の作品をみた記憶がなく、ついこないだ、芸大美術館でみたくらいだったので楽しみにしてました。

 

いまだに目覚ましのためだけに使っているガラケーの待ち受けは、厳粛なカノン。この絵もきてました。

 

わたしは、展覧会では絵の横の説明書きで、絵のサイズと、画材を注目するのですが、今回の展覧会にそのような説明がほぼ無く、絵が板に描かれているのか、キャンバスなのか、画材は油絵なのかなんなのか、そんな説明はまったく無く・・・

まぁ、油絵使ったり、岩絵の具使ったり、そのほか、いろんな土や鉱物を乳鉢ですりつぶして使っていたようなので、画材の特定もなかなか難しいのかもしれないです。

 

とにかくまぁ、前を向いても後ろを見ても、右も左も有元利夫だらけ。他の画家の作品は皆無だったので、有元利夫作品に囲まれている、夢のような空間に居られること、それだけが幸せで幸せで。

なんなんだろう、絵肌、発色、本物でなければわからない良さが強すぎて。

プリントにすると、色の深みとかがぜんぜん違う。カレンダーで見ていた絵もみているともちろん、幸せな気持ちになるのだけれど、本物は胸を熱くさせるのですね。

 

私は1979年から1982年くらいの作品が好き。晩年に比べて、色が濃いような気がする。発色が強いというか。

「ささやかな時間」も好きだ。このリコーダーを吹く人の表情。何度も何度も見返した。そんなに大きな作品ではないけども、見た時間の長さでは一番だったと思う。

 

そして、彼が生前寄稿した文章が絵と一緒に飾ってあるのですが、その字体とか紙の色とかがまた良い。

 

で、若くして亡くなってしまう。

最後に奥様の文章があった。それを読むとちょっと複雑になった。

有元利夫もまた、当時は当たり前だが、今となっては古臭いと言われるかもしれない普通の男性だったのだと。

自宅のアトリエで作品を描いているときは、奥様は絶対外出できなかったという。そして、芸大を二年も前に卒業している奥様に向かって、僕が死んでから絵をかけば?と言ったとか。

もちもん、夫婦の会話は夫婦でしかどういう意味なのかわからないけど、なんだかなぁと思った。当時で芸大の日本画科を卒業している奥様も、きっとかなりな才能があったに違いない。だからこそあの有元利夫夫人になることができたのかもしれないのだけれど。

平山郁夫の奥様も同じ芸大で会って、結婚をして絵を描くのをやめている。

なんか、もったいないなぁ。わたしが女だからそう思うのかもしれないけれど。

 

いままで、若くして志半ばで病に倒れた、ちょっと変わった画風の有元利夫を神格化していたところもあったのも確か。

今回の展覧会で知った新たなことでした。

それでも、この人の絵は、これからもずっと好きでいつづける。好きで好きでたまらない。

 

展覧会会場でチェンバロ(この楽器も大好き)の演奏会があり、チェンバロといえば、有元とわたしが好きなバロック音楽で、これもまた幸せな時でした。

椅子の席がうまってしまい、立ち見も致し方なしと思っていたところ、追加の椅子が登場し、ぎりぎりのところで座って聴くことができました。立っているかたもたくさんいらっしゃいましたところ恐縮です。

 

閉館近くまでたっぷり堪能いたしました。

 

これからの芸森は、エッシャーやら、ディズニープリンセスやら、楽しいものがあるようです。

たまにはやる気みせておくれよ〜札幌よ。

 

あ、有元といえば、画面にトランプが舞い散る絵がたくさんあるのですが、なぜか、トランプが描かれた作品は今回ありませんでした。

トランプ柄好きなわたしとしては、ちょっと残念でした。

 

とはいえ、とても幸せな展覧会なのでした。

特別なわたし

本日、会社の健康診断日で、午前中は人間ドック、午後から休みだったのです。

 

今年も結構な人出。みんな同じジャージを着て、順番待ちしながら検診項目をこなしていきます。

項目から項目までの間、結構な待ち時間があるのでたくさんある雑誌の中から、たまたまそばにあった、Number(ダービー特集号?)を読んだ。

北島康介についてのコラムがあって、記事を書いた方は、北島康介さんと同い年の方だった。

その記事によると、1982年生まれの自分たちは、特別な(このフレーズはつかわれていたかは忘れた)変わった、世代で、キレる14歳や、荒れた17歳と、あまりよろしくない意味で呼ばれて世代だという。

ふーん、そうだったか。と思った。わたしの中で1982年生まれを、あ、1982年生まれなんだこの人とか、意識したことは今までない。

 

そんで、この方は、同い年の北島康介さんを、数いるアスリートの中で特別な思いで見て、応援して、引退した時に、胸に迫るものがあったなんたらかんたらと書いていた。

 

言いたいことはすごくわかった。つい、こないだわたしが、とある選手に抱いていた気持ちを改めて認識させられたことと同じではないか。

 

やはり、年は一つ上でも一つ下でもなくて、同い年っていうのが重要らしい。

そのアスリート(頑張っている、有名人)に自分を重ね合わせ、自分自信は名もない普通の世間人だが、自分と同い年の有名人にはこんな人がいて、同い年生まれの連中は、別の年のやつらとは違って、ちょっと変わったやつらと思われている・・・と。

つまるところ、特別なやつらと同い年の自分ってことをわざわざ書いているわけですが、自分自信は特別ではないわけです。

 

何がいいたいのでしょうか。

しかし、わたし自身もそういうふうに思うことがあるんじゃないのかって思ったのです。

何か、人と違った自分が欲しい。根拠はよくわからないですが、けっこうな人がそう考えるような気がします。

 

でも思ったのです。「うちらの世代って〜〜〜」から始まる話しを、他の年代の人に話しをしても、つまらないんだと。自分がきいてもつまんねーなと。

 

したがって、そのNnmberのコラムは、北島康介と同い年だから〜〜っていう観点で読むと、はぁ?だからなにってなりますが、別の角度から読むといたってふつうです。

 

世間のおおかたの人にとって、ある有名人と同い年だからなんだってことはないのです。あらためて思い直しました。

 

わたしが特別な思いでみているアスリートは、現役です。

アスリートとしてはなかなかの年齢です。彼の姿をみていると身が引き締まるのです。本当に。

でも、そんなこと他人にはどうでもいい話しで、そのアスリートはすごいけど、あんた別に関係ないじゃんってことなわけですね。

 

友人がすごい、家族がすごい、親戚はすごいってのも同様。

そんでもって、自分の世代など、他の世代に注目はされていないってことです。

ヘイトスピーチって、つまるところなんなんだって

はずかしながら、ヘイトスピーチってわからないのです。

おそらく「ヘイト」と、「スピーチ」で成り立っている言葉なのだろうけど。

 

ヘイトスピーチのために集まっている方たちは、いいことをやっている人たちなのか、悪いことをやっている人たちなのか。

そして、カウンターと呼ばれる人たちはどの立場をとっている人たちなのか。

たとえば、リベラルの観点からみればどうなのか。

わからない。

 

最近成立施行された、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」がどんな影響を及ぼしているのか。

これが施行されてはじめての土日だったからどうだとかこうだとか。神奈川で寸でのところでやめた集会とか、こないだの数寄屋橋のとか、影響あるんだろうか。

 

なんか、北海道に住んでいると、こういう問題に疎くなる。

北海道で田舎育ちでっていうことで甘えているのかなっていうのはある。

 

まず、北海道じたい、あんまり選民思想がないというか、誤解を恐れず言うと、住んでいるところ、生まれたところで、あまり人を区別しない土地柄だと思う。

こちらで、「部落」という言葉は、所謂、「同和」な意味ではなく、単なる「町」とか「村」のある地域の意味合いで使う。

「部落会」というのは、単なる町内会の意味で、普通に日常会話で使うわけです。

なので、「同和問題」についての、授業など受けたことはなかった。今はわからないが、わたしが小学校・中学校・高校のときは、時限まるまるそのことについて時間をとったことはなかった。

授業の中の余談で先生が話しをしたことはあったけど、大人になってからいろいろ知って驚いた。

 

それでも、口にすることじたいタブーなのではないかと思い、大人になってから知り合った友達とかにはどういうものなのか聞くことがなかなかできない。

ネットで調べようにも、本当に知りたい情報を探し出すのが大変で、芸能人のだれが、そこの出身だとか、半島の血が入っているだとか、そんなのが多くて諦めてしまう。

書籍もいいのがない。

何冊か買ったが、やっぱりそもそもの根っこがわからない。

 

在日の方も北海道にはいるはいると思うのだけど、コミュニティを形成するほどではないのでやはり、我々と何がどう違うのか、やっぱりわからない。

そもそも一緒にするなと言われるかもしれないけれど、自分と違う人たちだと感じる他人が生活にいたことがないんです。

アイヌの方がいたけど、大人はなんかよそよそしく接していたかな。

 

安保法案の議論の時も、テレビでいろいろ論客が話しをしていたが、安保法案賛成の人の話しも、反対の人の話しも、どちらも何を言っているのかわからなかったが、なんかそれに近いものがあるな。

今は、わかるんだけど。

 

前に、橋下徹と、桜井誠が、あーだこーだのバトルをみたけど、まったく意味がわからなかった。

これから自分なりに、何かの基準とかできるのだろうか。

 

人間って、なにか自分より無条件で下とみれるもので心の整理をつけるってことから逃れられないのだろうか。

ヘイトスピーチって、つまるところなんなんだって

はずかしながら、ヘイトスピーチってわからないのです。

おそらく「ヘイト」と、「スピーチ」で成り立っている言葉なのだろうけど。

 

ヘイトスピーチのために集まっている方たちは、いいことをやっている人たちなのか、悪いことをやっている人たちなのか。

そして、カウンターと呼ばれる人たちはどの立場をとっている人たちなのか。

たとえば、リベラルの観点からみればどうなのか。

わからない。

 

最近成立施行された、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」がどんな影響を及ぼしているのか。

これが施行されてはじめての土日だったからどうだとかこうだとか。神奈川で寸でのところでやめた集会とか、こないだの数寄屋橋のとか、影響あるんだろうか。

 

なんか、北海道に住んでいると、こういう問題に疎くなる。

北海道で田舎育ちでっていうことで甘えているのかなっていうのはある。

 

まず、北海道じたい、あんまり選民思想がないというか、誤解を恐れず言うと、住んでいるところ、生まれたところで、あまり人を区別しない土地柄だと思う。

こちらで、「部落」という言葉は、所謂、「同和」な意味ではなく、単なる「町」とか「村」のある地域の意味合いで使う。

「部落会」というのは、単なる町内会の意味で、普通に日常会話で使うわけです。

なので、「同和問題」についての、授業など受けたことはなかった。今はわからないが、わたしが小学校・中学校・高校のときは、時限まるまるそのことについて時間をとったことはなかった。

授業の中の余談で先生が話しをしたことはあったけど、大人になってからいろいろ知って驚いた。

 

それでも、口にすることじたいタブーなのではないかと思い、大人になってから知り合った友達とかにはどういうものなのか聞くことがなかなかできない。

ネットで調べようにも、本当に知りたい情報を探し出すのが大変で、芸能人のだれが、そこの出身だとか、半島の血が入っているだとか、そんなのが多くて諦めてしまう。

書籍もいいのがない。

何冊か買ったが、やっぱりそもそもの根っこがわからない。

 

在日の方も北海道にはいるはいると思うのだけど、コミュニティを形成するほどではないのでやはり、我々と何がどう違うのか、やっぱりわからない。

そもそも一緒にするなと言われるかもしれないけれど、自分と違う人たちだと感じる他人が生活にいたことがないんです。

アイヌの方がいたけど、大人はなんかよそよそしく接していたかな。

 

安保法案の議論の時も、テレビでいろいろ論客が話しをしていたが、安保法案賛成の人の話しも、反対の人の話しも、どちらも何を言っているのかわからなかったが、なんかそれに近いものがあるな。

今は、わかるんだけど。

 

前に、橋下徹と、桜井誠が、あーだこーだのバトルをみたけど、まったく意味がわからなかった。

これから自分なりに、何かの基準とかできるのだろうか。

 

人間って、なにか自分より無条件で下とみれるもので心の整理をつけるってことから逃れられないのだろうか。

ひらがなについて

なんとなく、仕事で打つメールの文章でひらがなを多用することが多くなってきた。

 

何ヶ月前か、漢字ではなく、平仮名で書くことのやわらかさというも記事を雑誌か、書籍かで読んだことを覚えているが、そもそも毎日なんらかの本や雑誌を読んでいるわけで、このようなエピソードが頭に残っっているってことは、その記事を読む前からすでに関心があったことだと予想される。

 

よく使うのは、「させていただきます」、「ぞんじます」かな。

当然、普通にキーボードを打つと、「頂きます」、「存じます」と変換されるわですけど、あえて、ひらがな表記に変換しなおしたり、打ち直したりするのです。

 

それを読む人がどう受け取るかは知りません。極端なことになると、漢字も使えないのか、や、幼稚だなと思われるのかもしれません。

さすがに、なんでもかんでもひらがなにはしません。

「いつもお世話になっております」を、「いつもおせわになっております」とは書きません。

しかしながら、相手がどう思うかより、自分がどう思うかのほうにシフトしているわたくしにとって、どうでもいいことなのです。

 

ひらがなのやわらかさは、相手に自分の気持ちを伝えるっていうより、書いている自分がなんか、やさしい気持ちになれるような感じがするのです。

 

ついカッとしたときとか、気をつけてひらがなにしたりする。ひらがなそのものの効果のほかに、わざわざひらがなに変換するという、余計な行為による怒りから遠ざかる効果もあると思うんです。怒りと関係ない行為を挟むというか。

 

相手にどう伝わるかなんて誰にもわかりません。

仕事で伝えなければならない事務的なこと以外に、気遣いとかやさしさとか思いやりなんていうものをいくら発信側が盛り込んだところで、それをどう感じるかなんて受けて側の勝手なんですからね。

発信側の意図がまったく気にされていないことのほうがほとんどだと思うのです。

 

それよりも、自分が落ち着いてやわらかな気持ちになったほうが、相手に対しても良い心持ちで接することができるような。結果オーライだと思うのです。

 

私は人との距離の取り方が上手ではなく、それで疲れてしまうことが多くあるのですが、相手相手と考えるのではなく、自分はどうか?で考えてみたほうが、良いのではないのか〜と。ここんとこ思うのでした。